映画・テレビ

みなさん、いただきます

 おいしいもの大好き。

 毎日おいしいごはんを作ってくれた(ている)お母さん、
 それはそれは美味なるパスタの一皿を完成させるシェフの方々、
 舌にも目にもおいしいケーキを生み出す達人パティシエたち、

 そんな方々に感謝と敬意を込めて「いただきま~す」と唱えていたけれど、それを伝えたい相手はもっともっとたくさんいるんですよね、ほんとうは。

 食にまつわる事件や疑念が渦巻くこの時勢。我々の前に現れたその映画のタイトルはいのちの食べかた(原題:Our Daily Bread)」

 この映画、というかドキュメンタリーのような映像は、実はとても大切なのに我々が見てこなかった景色を見せてくれる。

 わたしたちは毎日「食べる」行為を続けている。
いわずもがな、生命の維持には絶対必要だから。
我々が食べ物を無意識に口へと放り込むときも、しっかりと噛み締め味わうときも、それぞれに対する集中力は異なっていても、それが私たちの生命の源となってくれる有機物であることには変わりない。
当たり前だけど、その行為はその食べ物本体と、それを加工し運んでくれる人の力なくては成立しないことですよね。
目の前に魔法のようにパッと大根が現れるわけではないのだ。

 じゃあ誰がどんな風に目の前の大根を存在させてくれているんだろう?

 畑でお百姓さんが一本一本よいしょっと引っこ抜いて収穫しているわけないことは、みんなわかっているはずです。

 この映画いのちの食べかた」はもっと想像を超える(というか想像だにしていなかった)風景を見せてくれます。(ただし、ところはヨーロッパ。大根はない。)
肉(牛・豚・鶏)をはじめ、卵や牛乳、トマトやりんご、レタスなんかの生産現場ショットの連続は、唖然と驚愕の連続となって心に残ること必至です。
 

 はっきり言って普通の映画とはまったく違う。セリフもナレーションもないし、音楽もない。明確なストーリーもなければこれといった主張があるわけでもない。
映像がめまぐるしく動かないうえ、音があんまりないのであるから、とにかく間(マ)が多い。
興味ない人は寝ちゃうかもしれません。
でも実はそれが重要。
なぜって観てる人に想像力や考える時間を与える余地があるから。
なにをしているのかがわかりにくいショットから始まると、人は画面を注視し、一生懸アタマをめぐらすことになる。あれ、なんだろ、これ、一体何してるんだろ・・?と。
決して向こうからは提示してくれないのだ。その意味を。良いも悪いも、快も不快も、自分で感じて考えることを余儀なくされるのだ。
作品自体はあくまでニュートラル。どちらサイドでもない。
これは、本当に、むむむ、やるなという感じ。

 さて、もっともっと続けてこの映画のことを書きます。
あまり知りたくない人はこのへんで。

 

 まず驚くべきは、その効率性
一部のムダもないオートメーション化、方法論、生産性の高さ。
言い換えれば、専門性、熟練の技、プロ中のプロ。
いかに短い時間でたくさんの動物や植物を「食材」にしていくか、を追求することに意味を見出している。

 廊下の両側に並んだ部屋の中では大量のヒヨコが人工孵化され、次々と殻から箱に移され、まるで黄色いテニスボールのようにベルトコンベアーに乗せられていく。
 ある程度の大きさに育つまで、だだっ広い飼育小屋で満員電車のように過ごし、いざ出荷のときには取り込み機械(回転ドアのように巻き込み式の・・)に短時間でどんどん回収され、その後、自動的に足からつるされ、短時間で血抜きされ、羽が取られ、いわゆるチキンと化す。

 ナッツ(何かはわからん・・)の木は、その幹を農耕機のような機械の大きな「手」がガシッと掴み、突如ものすごい勢いでガーーーッッッと激しく揺らし始めると、実がブワワワワワッと地面に落ちる。おまけにその間、ひとりの人が棒で枝部分をバシっバシっとひっ叩く。落ちた実はその後ショベルカーで掬われる。

 牛の繁殖のシーンは観るものをかなり複雑な気持ちにさせる。
一頭のメス牛が固定されており、オス牛たちがそのうしろにズラッとつながれている。一頭のオスをメスの真うしろにセッティング。三人の人間がタイミングを伺い、オスの前足をよいしょっとメスのオシリへ。まぁ大変そう!と思ったら、ひとりがすかさずオスに何かはめ、つまり人工受精用の精子を採取。終わったらそのオスはうしろのオス列につながれる。
繁殖は人工でなされると知ってはいたけど、この光景を実際目にすると胸には悲哀が・・。
牛たちはどんな気持ちなのだろう、オスもメスも。。。。

 

 つまりはやっぱり効率性(=低コスト) 。
原始時代には食べ物を獲得するのに一日のほとんどの時間を費やしていた。それと比べると、現代、食の生産は分担化しているということか。誰かに仕事として従事してもらう。
そうすることで、別の人は他のことをする時間を持てるということ。わたしは服を作るから、彼は家を建てるから、あなたは食糧係ね、ということだろうか。
食糧係がどんなことをしているのかは知らずに過ぎてそれをなんとも思わなくなったのが現代というわけだ。
 
 効率化・自動化は生産という観点からは通常、優先されるべきことなのかもしれない。
けれど、「食べること」が「他の命をもらう」ことであるならば、その食材にもかつて「いのち」があったことを覚えているべきだと思う。もちろん野菜や果物だってポキと折られたその段階から成長は止まる。
加えて、動物に関していてば、食材として育てるとはいえ相手はモノではない。「効率性」と相反すれど、彼らの生活の質をどこまで視野に入れるのかを頭におきその判断基準を日々新たにしていく必要があると思う。
我々は家畜を行い、動物の命をコントロール下においている人間という特別な生物なのだから。
 
 そうしてみると、映画の中で行われているオートメーション化では、肉が断片になるまで人間の手がその動物の体にほとんど触れられていないことが気になった。抑えるのもつかむのもほとんどみんな機械なのだ。ウィーン、ガシンッ。
ジタバタ動くそのいのちの、血が通った体温や躍動感やを感じずして、「いのち」をいただいてよいものだろうか。
 

 それからさらに印象的だったのは、生産や加工の手順だけでなく、その現場で働いている「」のショットが多いこと。
とりわけ、彼らのランチタイムの映像が随所に挟まるのが興味深い。
たいてい彼らは家で作って持ってきたサンドイッチを黙々と食べている。(サンドイッチには彼ら自身が生産しているものが挟まっているのだろう。ハムやチーズ、レタスなど。)
何かを読むでもなく、しゃべるでもなく、ただ黙々と。おそらく無心で。食べる。
 これってなんだか逆説ぽくて面白い。食べるものを作る活動をするために、それを食べる。消費するために消費するものを生産する。はて、いったいどこに行き着くのだろう?

 彼らは黙々とてきぱきと自分の仕事をこなしていく。
 逆さにつるされたブタの足をハサミでちょきんとカットする若い女性。彼女にとって、目の前のブタはさっきまで生きていた動物ではなく、今やただの製品なのだろう。慣れだ。
 失神した牛の頚動脈を一気に掻き切って血抜きをする担当の男性。
対象が巨体だけに、その血の量はハンパじゃない。鼻からも体液がドバドバと出てくる。
仕事といえどこれはさすがにパフォーマンスが派手で、やっている本人だって感じるところがあるに違いない。
 けれど、彼はただ、誰かがやらなければならないことを仕事としてやっているだけなのだ。これをやらなければみんなの食が成立しないということを。

 監督は何かのインタビューでこう言っていたそうだ。
「あなたがそれを食べるのであれば、あなたもその動物をシメることができなければならないんだ、本当は。」と。
 最後のシーンは、牛の解体場の掃除の場面で終わる。
水を流す音、ブラシで床をこする音。職員の話し声。
まるでその場にいるような錯覚を覚えた。(今まで音声が乏しかっただけに)
自分は関係ないわけじゃない。

 

 日本に住む我々がまず考えなければならないのは、声高に言われている食料自給率のこと(39% 2007現在)。さらには、他の国々に誇る、食糧廃棄量の多さのことだと思う。
とある統計にによると、一年間に廃棄する量は、日本の食糧生産量と同じくらいだそうだ。(輸入食糧をのぞいた、日本で生産できる食糧の量)。なんと皮肉なことだろう。

 「いただきます」も言われず、他のいのちに貢献もできず、灰となっていく「いのち」が多すぎる。
 食べきれないほど作ることはもう、ほんとうにやめようよ、と心から思う。

  

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  MY スペシャルデー BREAD

  

   いただき

  

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  ますっ

 

  

 

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それでも生きねば

 『北極のナヌー』を観にいきました。
旭山動物園に行って以来、ホッキョクグマに心奪われ・・。

 2年前の『皇帝ペンギン』、さらに前の『ディープブルー』に引き続き、こういうドキュメンタリー記録映画モノはついつい観てしまう。
膨大な時間と労力を投じ、動物の生態を記録した映像は、どんなCGもかなわない本物の感動を与えてくれると思う。

 この物語の主人公は、北極に生まれたホッキョクグマの赤ちゃん「ナヌー」。
地球温暖化が叫ばれている現代、それがナヌーの成長にどのように影響していくかを語ったドキュメンタリーです。

 製作は『皇帝ペンギン』のUS版のスタッフたち。全体的な印象は『皇帝ペンギン』に比べ、より物語チック・ドラマ仕立てになっているなぁという印象を受けました。やっぱりアメリカ的といえばアメリカ的なような・・。
でも、映像の断片を寄せ集めてでも、ひとつの物語を提示するほうが、たくさんの人にとって身近に感じやすいというメリットがあるんだろうと思う。
 

 さてこの映画、ナヌーのほかに、隠れた主役がいます。同じ頃生まれたセイウチの赤ちゃんシーラ。同じように温暖化の影響で氷が解け始めた北極で、シーラの生も始まります。
子供時代から始まるということもあり、どちらもたまらなくかわいいのです。
このホッキョクグマとセイウチ、北極で暮らす者同士ですが、実は食う・食われる関係です。
思うに、このふたつの異なる種を主役に据えることで、視聴者に両方の視点を持たせてるんではないかと。極端に言えば、どちらかの生を成り立たせるには、どちらかが犠牲にならなくてはいけない。ナヌーを応援する一方、時としてシーラにも肩入れしてしまう。その両方の立場を無意識に受け入れることで偏った見方にならないようになってるんじゃないかと感じました。ウマイね!
 

 わたしたちは時として忘れがちだけど、自然のサイクルは命のサイクルなんですよね。
誰かの命が100%、他の命のためになっている。
ホッキョクグマは主にアザラシを食べて生きているのだけれど、狩が成功するのは20回に1回だそう。はらぺこではらぺこで、ようやく捕まえたアザラシを余すことなく胃の中に収める。時に、追いついてきたホッキョクギツネに分け前をちょっぴりあげることもある。
人間のように、食べ残しや生産途中の廃棄や、食べる目的以外で命を無駄にすることもなく・・。
 

 もうひとつ人間と違うのは、彼らはその一瞬一瞬を生きているのだなぁということ。
いつ命を終えるかわからない、厳しい自然界の中では、生きているということ自体が目的なんですね。
子供時代のシーラはやわやわでおいしそうなので、すぐに外敵に狙われるわけです。お母さんと乳母(!)が必死で守ります。(セイウチは相当愛情深い動物と知りました・・。)
そんなことが日常茶飯事なのです。だからこそ、今この瞬間、母子がよりそって寝ていられることがすべて、とばかりに。
ナヌーも必死で歩きます、泳ぎます。
ここにこうして生きていることが目的で、それを連続すること、さらには命を宿して子孫を残していくことだけが目的なんです。
わたしたち人間は、明日の予定や、5年後の暮らしのこと、将来の生活設計に振り回され、今この一瞬をかみしめることなんてあまりないような気がしませんか?
人生70~80年が大前提と考え、一寸先に危機があるなんて考えもせず。
 

 温暖化は、北極に住む生き物の暮らしを確実に変えています。
その生物独特の、古くからの知恵やDNAに刻み込まれた行動様式が太刀打ちできないほど、彼らを取り巻く環境は急速に変化しているといいます。
ナヌーがお母さんから教わった知恵が、まったく役に立たないことになるのです。
そして30年後には、ナヌーの子孫はいなくなることが予想されています。
温暖化の大きな原因が人間活動にあるのなら、私たちは今、なにをしたら。
 

映画の最後に"Learn more, Take action"とあったけれど、たしかに両方が必要ですね。
片方だけでは不完全。

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  おんだんかで・・

 
 

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   コタツも消滅・・?

 

 

 

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つながってるんです

 あー目がはれぼったい。

 ダラダラと流れる涙の量と同じくらい、しかし、さわやかな気持ちのかたまりが胸の辺りにぷかぷか浮いています。

 今日観た映画のこと。

 『夕凪の街、桜の国』。

 こうの史代さんという方の書いた漫画が原作、その実写版です。
元々は、うちの姉が買ってきて「コレ、いいよ」と薦めてくれた漫画で、表紙には靴を手に持ち、空を見上げて裸足で歩く女の子が。色合いがほんわかとして温かみのある絵に心を動かされ、「どれどれ」とページをめくると、とたんにその世界に引き込まれ夢中で読んでしまいました。

 この漫画は、文化庁メディア芸術大賞や、手塚治虫文学賞新生賞も受賞したそうで、韓国やアメリカ、フランスなどなど10カ国で出版され、海外でも注目されたほどの作品です。
といった云々は、後から知ったんだけども、とにかく私にとっても、久々に震えるくらい感心する漫画に出会ったと言えるほどの魅力あるものです。(ガラスの仮面、以来かしら??)

 なぜそんなに注目を集めるかって、これは「ヒロシマ」を扱ったものだから。
で、なぜ絶賛をされたかって、「ヒロシマ」を描いているのに、まったく重ーい雰囲気がないから。じゃないでしょうか。

 世の中に原爆の悲劇を伝えるメディアは数知れずあるけど、こんなにも爽やかで温かくなって、せつなくて、でも楽しめて、なによりも、自分に「つながる」効果のある作品はない。

 今を生きる人にとって、過去の悲劇というのはもう過ぎたことで、それは歴史の教科書の1ページと化してしまってます。
天明の大飢饉や明暦の大火、関東大震災やオイルショックなんかをぜんぶ同列に考えちゃってることってありませんか?ワタシだけ?
たぶんそれは、今の自分とは関係のないことで、その時代の当事者は大変だったんですねぇ、と、もうその出来事をクローズしちゃってる意識のことなのかなと思う。
でもこの漫画のすごいところは、「こんな風に現代とつながってるんだ」というのを、押し付けがましくなく描いているところなんです。

 その原作の貴重な雰囲気を壊すことなく、映画もすばらしく出来上がってました。

 小説や漫画の感動的な作品が映画化されると、まったく別物になってしまったり、も~ガッカリ!っていうものも多いけれど、これに関していえば、ブラボー!!!!
監督は佐々部清。けっこう好き。
『半落ち』(主演:寺尾聰、これも良かった!!)、『四日間の奇跡』など、しみじみ泣ける系を得意とする監督だから、さすが。上手い!

 さて、ここから先は映画の説明と感想です。
耳をふさぎたい人はここでサヨナラ。
まぁ、ネタバレで台無しになる映画ではないので、読んだからってたいした影響はないと思うけど。

------------キリトリ--------------------------------------------------

 まず、ふたつの時代(昭和33年と現代平成19年)に生きるふたりの女性を演じた、麻生久美子と田中麗奈の演技が素晴らしい。
麻生久美子は被爆者・皆実(ミナミ)の、「生きとってええの?」というそれこそ爆弾みたいな思いを抱えながら、表面は明るく、でも陰のあるはかなげな感じがいい。この人は透明感&アンニュイな雰囲気がすごくいい。原作の皆実とはちょっと違うけどいい。

 田中麗奈は、いつも口とんがらがせてる、「は~っっ???」って感じの現代っ子みたいな役が似合うね~。これは地?
今回の、原爆と現代っ子をつなげる効果に、この口とんがりは一役買ってるなぁ。
映画のラストが、皆実のことに思いを馳せる七波(ナナミ)(田中麗奈)のアップで終わるのも、被爆当事者たちの短い人生のあふれる思いが、この現代に確実につながってるんだということを言ってるように思える。

 この作品で重要なのは、皆実の弟の旭(伊崎充則)。
彼の存在がこのふたつの時代を結んで、思いをつないでいる。
皆実が旭に言った、「わたしたち家族のことを忘れないでね」という言葉を確実に守ってるし、実行もしている。しかも、自らの選択で被爆の連鎖を断ち切ろうとしていない。
身内を原爆でなくすという辛い体験をしているのに、逃げずにそれをしっかり受け止められる人間として描かれている。
おじさんになった旭・境正章のとぼけた佇まいも、重くならなさ過ぎていいね。

 さらに、みどころいっぱいのこの話の中で、わたしがいちばん注目するのは東子(トウコ)(中越典子)の存在。
七波と一緒に、広島まで七波の父・旭を尾行するんだけど、彼女の突然の登場が、実はわたしたちにとっていちばんのつながりなんじゃないかと思う。
広島とは縁もゆかりもない、東京に住む東子(あれ?ネーミングわざとかね?)にとって、原爆はなんの関係もなく、知識も浅かった。広島に行ったことさえなかった。今までは。
この人は、まさに私たち自身なんじゃないかと思う。原爆は遠い世界の他人事。
でもそんな私たちも、原爆とつながる可能性があるんだと言っている。
まさにそれが東子なんだろうな。
この存在がなかったら、やっぱりこの出来事は当事者だけでクローズされてしまうに違いない。

 原爆ドームや資料館、数々の生生しい写真や絵で伝わることは直接的だし、ショックの振れ幅も大きい。けれど、こうのさんのように、あるひとりの被爆者の人生とその周り人の思いを中心に物語ることは、また別の効果をもたらす。


 原作(漫画)と映画の比較をちょっと。
原作はもっとさりげなく、起こるべきことが起こるべく流れるようにたんたんと描かれている。細かな演出もコマの隅っこにひっそりと書かれているのがニクイ。
それから、皆実が思う「いちばん怖いこと」や、惨禍をこの眼で見てしまった恐ろしさと、それをどう扱ったいいかの自己矛盾という点での描写は、原作のほうが身に迫るものがある。
映画のほうは、原作よりも家族の絆や思いの交流が濃い目に描かれていたので、とてもドラマチック寄りになっている。
原作は、日本人的な「言わずもがな」とか、「記述外のことを汲み取る」という雰囲気が強い。それもまた、我々日本人が大切にしてきたものなのかな、と思う。

映画というメディアは、メッセージを伝えるために、わかりやすく練り直すということが必要なんだろうね。
でも本当に、映画もブラボーだった。原作を大切にしている上、スタッフや出演者のレベルがこれ以上ないくらい素晴らしかったのだろうと思う。
 

兎にも角にも、戦争ものが苦手な人にもオススメできます。
思春期からのお子さんにもどうぞ。
(悲惨な描写はないし!)

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「夕凪の街、桜の国」

著者:こうの史代

双葉社 2004年

 
 

あー長くなった・・ 読んでくれた方、ありがとう。

 

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すいか

 暑い暑い夏の日。
 蝉たちがみんみん大合唱。たった7日間の生の証を歌に込めるかのように声を絞り出している。

 ダラダラと汗が流れ、髪はぎゅっとひとつに前髪もピン止めでぴちっと。化粧っけもなくTシャツ短パンの私。限界ぎりぎりまでクーラーをつけずに過ごす夏の休日。
 ・・ツライ。36度は確かにつらい。なぜガマンするってそれは・・・

 すいか。を美味しく食べるため。

 冷たくてじゅわっとしたすいか

 身がしっかりしてて甘ぁいすいか

 しゃくっ ジュワ-・・ しゃくしゃくしゃく・・・ぷっ・・・・しゃくしゃくしゃー・・く

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 食べ物って、そのものの味だけじゃなくて、シチュエーションと気温がとても大切です。
涼しい室内でのかき氷はおいしさ半減。シークァーサージュースも沖縄のまとわりつくような熱波の中でこそ体にしみわたる爽やかさだし、栗のモンブランは「食欲の秋」という声が聞こえてきてからのほくほくぶり。すいかもね、絶対に30度以上の空気のほうが美味しい。

 だから、すいかの大好きな我が家は夏がくると、毎日まいにちすいかを食べます。ざくざくざく・・・しゃくしゃくしゃく。たっぷりの水分が熱いノドにゴクリと落ちていきます・・・。

 さて、もうひとつ、思い入れのある「すいか」があります。

 2003年の夏に日本テレビでやっていた連続ドラマ『すいか』。小林聡美が信用金庫に勤める冴えない30代半ば独身の役を。ともさかりえが売れない貧乏漫画家役を。舞台は「ハピネス三茶」という、レトロな昭和建築風の下宿(下宿だから食事付き)。その他浅丘ルリ子や市川実日子など個性ある、というかアクの強い登場人物たちと、生活密着型の関わりを繰り広げていきます。
今の自分でいいの?将来は決してワクワクするものでなく、容易に想像できる現状の延長線上でしょ?のらりくらりと生きてるけど、ダラダラと自分のカラに閉じこもってるだけだったかも・・? などなど、かなり地味な内容なのだけど、これがほのぼの、じんわり、疲れた心に響いてくるのです。おしゃれな六本木も表参道もロケ地にはなっていません。ハピネス三茶は世田谷三軒茶屋、生活感のある庶民の街に建っているのです。画面にはいつもたそがれ時のやわらかい光が、バックにはひぐらしの鳴く声。アナログです。ほっとします。

 で、このドラマがこのあいだ平日昼間に再放送していたので、ハナ息荒く、録画です。早速、同じくこのドラマのファンであった友人と、「すいかの日」と称して、すいかを観ながらすいかを食べる夏の休日を決行。満員電車やIT化社会からしばしの別れを告げて、ゆるやかで叙情的な一日を過ごしたのでした。ときどきウクレレを弾いたりね.......ぽろろん。

 と書いてもこのドラマ、観ないことには伝わりません!そしてこのゆるい感じが好きな人種にはたまらない雰囲気なのです。胸にグッとくるのです・・。(あんまり視聴率はよくなかったみたいだけど)

 
 ドラマの最後のエピソードをひとつ。
小泉今日子扮する、小林聡美の同期(信用金庫の)。彼女は3億円を使い込みして追われる身となる。逃亡生活の中、こっそりとハピネス三茶を訪れると、誰もいない台所に、食べ終えた朝食の食器が。それぞれのお茶碗に梅干のタネがひとつづつ。それを見て、彼女は「愛らしい」と感じる。もう、そんな日常には決して帰れない彼女だから。

 日常というのはつまらないように思えるけれど、一旦それを失ってみると、かけがえのないものだったことがわかるということ。自分の家での生活感の積み重ねって、普段はなんとも思わないけれど、それが生きてるってことなんだと。

 「また同じような一日が始まる。でも、まったく別の一日だよ」

 そう、そうなんだけどね、穏やかな日常に退屈してくると、劇的な何かが起こらないかと期待してしまうんですよね。
 でも、暑い夏にすいかを食べられることの幸せを、かみしめてみようと思う。

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 どっから食べるの ???

  

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 おかぁさーん、割って~ぇ・・・ 

 

 

  

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