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子どもは見ていた

 最近ニュースでは中国ネタが多く見られますね。
段ボール肉まん、て、なんか冗談みたいなネーミングですが。中身の6割をダンボールが占めてるなんて、食べた人気づかないんですかねぇ。(後記:あ~よかったぁ 冗談で・・。)
米国では“CHINA FREE”というラベルが貼られたサプリメントまで。なんかのパロディみたい。
うなぎの季節ですが、中国産は避けたいですね・・。

 もちろん中国の国民が総じてそういうことやってるとは思ってません。
思ってませんが、そういう中国の側面がテレビで報道されることが多い今日この頃ですね。

ふと思い出したのが、少し前に情報番組で見てしまったあのシーン。
 

1匹の年老いた牛がトラックの荷台から地面へ降ろされる、

と、とたんに7~8頭のトラに囲まれ、

逃げ惑うまもなく倒されがぶがぶと、絶命。
 


・・・・・・!!!!・・・・・・・・~~・・くー・・

いや、びっくりしたのはその周りに、人間の乗るバスが何台も取り巻いてその様子を食いついて見ていたこと。
なんとこれ、ショーだそうです。エンターテイメント。
日本ではなく、中国。
放送していたのは日本テレビ「スッキリ!!」(たしか)。
「中国“残虐”サファリパーク直撃」の報道です。
 

 つまりこうです。
このサファリパーク、目玉イベントとして、パーク内で放し飼いにしているトラの群れに、生きた動物を投入し、それを何匹ものトラが争って襲い食べつくすまでの様子を、バスに乗った観客たちが見て楽しむという商売をしているそうです。鳥やその他小動物、牛などに値段設定がされていて、客は料金を払い生きた動物を購入。それをトラに与えるというわけです。

 わたしにとっては凍りつくような光景ですが、画面の中では、うれしそうな中国人たち。手をたたいて喜ぶおばさんあり、歓声をあげて大笑いの男あり、若い母親が子供をひざに乗せ、外を指差してなにやら話しかけ、3~4歳の幼児は口をあけてボーっとそれを見ています。
需要です。客です。娯楽です。

 さて、このニュース、もちろん批判的に報道しているわけですし、わたし自身、確かに激しい憤りを感じました。いきなり複数のトラ達の中に投入さた牛の恐怖と、絶命するまでの痛み苦しみ。そしてそれを喜んで見る人間の精神。子供に見せる意味とその影響。


ただ、一瞬、疑問も湧くのです。
この行いを責める、適切な批判の言葉は?
感情だけで嘆いてやしないだろうか。

なんでこんな疑問が湧くのでしょう。
それはたぶん、

① 食べられる命があるのは仕方のないこと。自然界と同じこと?

② パフォーマンスが派手だから、目を覆ってしまうのでは?
   小さければ、地味ならば、見えなければ、涙は流さないのかも

というところが引っかかっているのかも。
 
 

→①「自然界の野生動物たちが毎日繰り広げる「食う・食われる」瞬間と同じです。我々は飼育しているトラを野生の感覚を失わないために訓練しているのです。」

↑これはこの中国サファリパーク側が主張していたこと。

これに対してわたしだったらこう言っちゃう。

 自然界での出来事はトラと牛の問題では。
ほかでもない、両者間のみの、命がけの攻防です。
トラは牛(この2つの種の関係が自然かどうかはともかく)を食べなければ生きていけないし、牛はなんとか逃げ切ろうと自分の力で戦うのです。
食物連鎖と自然界のピラミッド。食う食われるの悲しい性。
 でも、このサファリパークの状況は自然界の摂理とはまったく違う。
なぜって、人間がトラと牛の間に入って、両者の命を不自然にコントロールしています。
トラックから降ろされた牛は100%逃げられない状況に置かれている。
このパークのトラは、野生のトラのようにぎりぎりのところで自ら獲物を見つけて知恵と運動能力を駆使して牛を獲得するのではなく、お腹が空いてなくても、据え膳を出されている。
これは野生の感覚どころじゃないですよね、
トラックがやってきた or 人間が目の前になにかを差し出した → エサがもらえる
という、ペットの学習以外の何者でもない。
人間が作り出したまったくフェアーじゃない状況に、「野生と同じ」なんて言わないでほしい。

→②見えることと見えないこと、ほんとはどうなんだ?
 
 トラックから降ろされた牛は、すぐに自分の置かれた状況にハッとし、身を翻して逃げようとします。そこに数頭のトラが鋭い爪と牙をむき出し、襲いにかかります。「もう終わりだ」という悲しい表情(に見える)の牛。とうとう力尽き、数々の牙が容赦なく牛の体に突き刺さります。最後の抵抗。体がひくひくとかすかに動きます。その皮膚は血に覆われていき、とうとう息途絶え、見るも無残な姿になるのです・・。

 と、まぁ描写するとこんな具合に、牛の最期には「苦しい死」を物語るビジュアルでのわかりやすいストーリーがあります。だからわれわれは目を覆い、涙を流すのでしょう。自分の痛みに重ね合わせるから。
でも、次のような状況を見たらどうなんでしょう?

○釣りたてのびちびち跳ねるイワシをアザラシに与える。
○ハエを捕まえて、ペットのカメレオンの箱に放つ。

 これって、明らかに、イワシやハエの苦しい表情は我々には見えにくいから、徐々に苦しむその姿を我々は見ないから、だから、涙を流さないんじゃないか??
人間って自分とかけ離れた身体カタチの生物には、想像力が働かないんでしょうね。
やっていることは中国サファリパークと同じなのかも・・。
(哺乳類の痛点と魚類や昆虫類の痛点が同じか?脳の大きさが異なるという点で、その苦痛レベルに違いはあるという議論はさておいて。)
 

 さて、こんなことを書いてはいても、わたし自身は決してこのサファリパークを肯定はできません。見世物が目的で命をもてあそぶなんて、見過ごしてはいけないと思う。

 

 人間は理性的な生物に進化し、様々な面で他の動物を利用している。自然界や野生といった面をほぼ脱ぎ捨て、もっと複雑に入り組んだ感情や欲求の中でいろんな行いをしている。そういう点では、地球上で特殊な存在かもしれません。大きく育った脳みそからは、どんどんアイデアが生まれる。「命をつなぐ」という目的以外のことに夢中になっている。それをあるいは文化と呼ぶ。いったいどこまでが本当に必要なことなのでしょう?そのことでひどい苦痛を感じる生き物がいるとしたら・・?
 

 我が家で飼っている犬は国産馬肉を食べています。
アリ子が毎日元気に走りまわれるのは、死んでくれたお馬さんのおかげ。
そのお馬さんたちがひどい苦痛なく死に至り加工されているのを祈るばかり。
これも、私たち人間がしている選択。

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 馬力

  

 

 

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